浜田屋旅館 大変お世話になりました、夕食時に 佐久の鯉
ついお酒が進み飲みすぎてしまいました、尚地域の商店のク-ポン券頂き
地元のお酒つい、購入して自宅に送らせていただきました。
今回から、説明&時間は写真の下に書き込みさせてください。
旅館を出て、町内循環バス、に乗り 昨日の乗車した 男女倉まで
送っていただきました、運賃は¥100-です
男女倉口まで、戻りました
此れより、和田峠 現在の標高1,100mの標識を後にして
木立の間の、登り口
此れより、和田峠 現在の標高1,100mの標識を後にして
木立の間の、登り口
今回の一番の難所和田峠 江戸からの入口です。
中山道は、江戸幕府よって整備された街道であり、平均すると2里
程度の間隔で宿場町が置かれていたが、この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い。冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどである。これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、いまでも地名にその名を残している。
程度の間隔で宿場町が置かれていたが、この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い。冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどである。これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、いまでも地名にその名を残している。
街道としては、道幅も広く 歩きやすいが 登り 登り
トイレ付休憩所勿論 トイレは利用できない(現在は)
1973年発掘し場所を変えて安置したもの。
8:28
まだ元気な吾輩です。 でも登りです。
国道142号線にでます、大きな藁葺の接待茶屋が見てきました。
前には、ホースから水が流れてました、自家用車で夫婦ものが
水を大量にボトルに入れてました。 ほんとに美味しい
案内標識が数多くあり、安心です。
9:04
避難小屋 トイレもついとります(使用できません)
意外に歩きにくい・
沢を横切るため橋が・
石畳の道
9:30
江戸より52里 広原の一理塚 。昔は笹と葦が生い茂る広い原に作られた塚
峠のドライブイン 休業中 旧道は通行止め中
国道の下をトンネルで
10:10
和田峠の頂上です。寒い 霜柱が
此処までは、綺麗に整備された道 お~なんだこりゃ
一面霜柱
うそ~ ハイキング道・・・碓氷峠を越えこの時は道が大荒
10:18
昔は、もう少し整備されたかな、馬と人がすれ違うのがいっぱい
諏訪まで11.1kmあるな。
10:49 いくらかいい道を歩く。
牛頭天王
牛頭天王
休憩です
53里目の一理塚
長閑な中山道から
国道を歩く、大型車が脇をすり抜けていく。
元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。それを慰霊する塚である。塚の周りは多数の桜の木があり、開花時には見事である。
元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。それを慰霊する塚である。塚の周りは多数の桜の木があり、開花時には見事である。
諏訪の観光案内
澄み切った青空の中、カキの実が。
12:11
樋橋茶屋本陣跡 皇女和宮も休まれた。
国道を外れ、旧道を(中山道)
12:45
諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」とい寅と申の年に行なわれる式年際である。また、長野県指定無形民俗文化財である。
正確には満6年間隔で行われる「6年に一度」なのだが、慣例として数え年の7年目ごとという意味で「7年に一度」と表記されることが多い。最近は「7年目」もしくは「数えで7年」という表記に変わりつつある。大きくは「山出し」と「里曳き」にわかれそれぞれ4月と5月に、そして下社は上社の一週後に行われる。諏訪地方あげての一大行事である。
木落とし坂・・・御柱祭の最大の見せ場として知られる諏訪大社下社
木落とし坂・・・御柱祭の最大の見せ場として知られる諏訪大社下社
「木落とし坂」長さ100m斜度35度の難所で、砥川の対岸から見る人多い。
0 件のコメント:
コメントを投稿