前日、実の赤坂宿の旅籠がお休みの為、大垣まで
東海道線で行きました、駅前のホテルにやどを取り
一番電車で、美濃赤坂まで戻りました。
尚、カメラ一台は落下して、使用不能
予備のカメラも、~電池切れ
フイルムカメラ 写るんですを購入
ガードをくぐると地名が青墓となる。青墓は平安時代から中世にかけて交通の要所として栄えたところで多くの遊女がいたところ。平安末、源義朝の都落ちにも出てくる処で、変わった地名
兜塚のすぐ先にある線路は貨物の廃線らしく、地図によっては記載されていない。中山道はそのまま、まっすぐ道なりに進んで行くと、左手の民家の間から土手のような盛り土が見える。左の道に入ると大塚古墳に出た。このあたりは古代から豊かな土地であったらしく、古墳が多いとガイドブックにある。美濃国分寺もこの先にあるから、確かにこの地方の中心地だったのだろう。
垂井宿は交通の要所として栄え、また、鉱山や金属の神として金山彦神を祀り、
美濃一の宮として信仰を集めた南宮大社の門前町
垂井宿は交通の要所として栄え、また、鉱山や金属の神として金山彦神を祀り、
美濃一の宮として信仰を集めた南宮大社の門前町
街灯に「中山道垂井宿」と書いてある道を少し歩くと江戸時代からの旅籠亀丸屋が緩くカーブした道角に見える。亀丸屋の前には「この道は中山道です」の道案内がある。前回もこの道案内には助けられた
やがて左手に日守茶屋跡(茶所とある)、その先に一里塚がある。
一里塚は片方だけ残っている
不破の関跡に出る。ここが、かの不破の関跡か・・・壬申の乱(762年)には既に存在していたのだから、およそ1250年前には関所として機能していたのだろう。
ここからは、両側に山々の迫る道を行く、
関ヶ原 松並木にある 六部地蔵
全国の神社寺を、巡礼して修業しているひと。
関が原宿は北国脇往還と伊勢街道の分岐点に当たり
西に今須の峠を控え、多くの旅人でにぎわつた、
しかし、往来の繁栄ぶりを偲ぶ史跡はない
常盤御前のお墓
今須宿を通過して 此れより柏原宿 1.4キロにも及ぶ大きな宿場街道筋には、数軒の古い家屋が残る
美濃と近江の国境「寝物語の里」
国境の細い溝を挟んで2軒の旅籠が有り、寝ながらにして
他国の人と話ができた。
柏原宿に入り有ました
今回の中山道歩きは此処まで、柏原駅から電車
米原まで行き、新幹線でお帰りだ・・
赤坂宿~垂井宿 5.2k 1:20
垂井宿~関ヶ原宿 5.4k 1:30
関ヶ原宿~今須宿 3.9k 1:15
今須宿~柏原宿 3.9k 1:00
柏原宿は中山道69次のうち60番目です。